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きらめく海
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大澤永江/Ohsawa Hisae

 1953年埼玉生まれ。専業主婦だった33歳のとき、夫が経営するフランス料理店のマダムとして店を運営。その後、自身の肌の衰えや老化への不安を感じていた頃、製薬会社の大学後輩との出会いで、乳酸菌、腸内細菌について関心をもち独学。
 2001年、日本ホリスティック医学協会の第1期生として生活習慣病予防指導士を取得。トータルヘルスコンサルタントとして、「腸・肌・ココロ」の3つの美による健康と美容のアドバイス、コンサルティングおよび講演活動を行う。
 2010年9月、拠点を埼玉から神奈川・葉山に移し、3B Japan(スリービージャパン)設立とともにオンラインショップオープン。現在に至る。 NPO法人 日本健康食品科学アカデミー理事、立教経済人クラブ会員。

3B誕生の物語

平凡な専業主婦から、フランス料理店マダムに転身したのが30代半ば。その頃、お肌の衰えを感じはじめ、漠然と「老い」に対する不安があった時期でもありました。

 

そのとき、かの渋沢栄一翁*1の一族である渋沢多歌子さん(渋澤国際学園創始者)からある特殊な自然美容のお仕事をいただき、美容の世界に入ることになりました。また同時に、外資系製薬会社に勤めていた大学後輩にばったりと出会い、彼が新しく商品化しようとしていた風間美佐雄博士*2の乳酸菌に触れることになりました。

もともと医者を目指していた私にとって、この2人と出会い、健康と美容の世界を歩むことは運命だったのかもしれません。

 

その後、「乳酸菌は腸内細菌の1つで、腸内細菌学は畜産の獣医なら詳しい」と聞き、知人の獣医にアドバイスをもらったり、内科医の知人からもらった論文「腸内フローラと生体」や医学出版センター発行の専門雑誌「微生物」内の特集記事に衝撃を受け、健康と長寿に関して大変関心をもつことになりました。

 

また、40歳のとき(1993年)、プラセンタエキス製造会社の常務と出会い、自身が使うことにより納得、さらに研究開発を重ね、翌年、プラセンタエキスの化粧品として、プラミド化粧品(主成分の「プラ」センタとセラ「ミド」から)を発売いたしました。自身がプラミド愛用者第1号として、宣伝費は価格に反映せず、1枚のパンフレットと手づくり資料のみからのスタートでした。

 

まずは自身が乳酸菌とプラセンタ化粧品を使いつつ、観察と記録を行っていった結果、驚くほどの確信を得ることになったわけです。

 

しかしながらそれ以上に、私にこの仕事を使命と感じさせてくれたのは、当時70代の義父でした。若い者に迷惑をかけないようにと健康に勤め、老醜をことさらに嫌い、当時、男性化粧品が珍しかったころに、女性以上に肌の手入れを怠らず、身奇麗な姿で過ごす義父。

「その管理を自身で出来なくなったら無用の長物。断食をしてキレイに死ぬ」と持論を掲げ、その考えに近い最期を送りました。自宅にてその死を看取った者として改めて彼の気性の凄さ、彼の願いを実現できたのも、乳酸菌やプラミドがあったからこそと感慨深く感じました。

彼の老いや体調変化の日々をプロの目を持って、見つめることが出来たことは素晴らしい経験で、誰にも訪れる老年や最期の確かなお手本を見せてもらい、感動と感謝で一杯になりました。

ここには正直申し上げて薬事法の関係で記載できませんが、ただひたすら乳酸菌やプラセンタを通じて健康と美を追求し、飽きずに諦めずに実践してきた自身や義父、そしてお客様の一つ一つの歴史の積み重ねの結果が、今の3B Japanの叡智の財産です。

 
日本の食物史は味噌に始まり、納豆・ぬか漬けなど発酵食品の歴史です。自然に腸内環境のことを考えて実践していた先人の知恵に感服し、昔良く言われていた日本民族の優秀性も現代の人心の荒廃も腸にあるような気がしてなりません。

ストレス社会、超高齢少子化社会の日本の問題を解決し、幸せな社会を実現するために、腸、肌、ココロの3つの美(3 Beauty)の大切さを、一人でも多くの方に伝えていければと思っております。

 

*1 渋沢栄一翁は、明治~大正期に、約500社の企業を設立した日本の資本主義の父。
      wikipedia 「渋沢栄一」より
*2 風間美佐雄博士は、宮内庁研究所で昭和天皇陛下の為に乳酸菌飲料を開発した。

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