コラム「乳酸菌とのであい」シリーズは3B通信 No.83 (2023.夏号)に掲載されたものです。
古稀を迎えた、株式会社3B Japan代表の大澤永江が乳酸菌との出会いを振り返るコラム。
是非、お付き合いください。
🔷一万円札の顔、渋沢栄一生家「中の家」の最後の当主渋沢多歌子様との出会い
1984年夏、“渋沢栄一の生家「中の家」を2億円かけて改築し、国際親善に尽くした栄一の偉業に沿う日本語学校「渋沢国際学園」を開設する。”とその当主である渋沢多歌子様の記事が新聞に載りました。当時、深谷駅前でレンガ作りの3階建てビルでケーキ・パン、喫茶やレストランを経営していた我が家は、渋沢栄一にちなんだお菓子を作ろうと計画し、私(当時31歳)が軽井沢に滞在中の渋沢多歌子様を訪ね、知己を得ました。
その後学園は、翌年の4月に開校。東京住まいで深谷とほとんど縁のない多歌子様にとって、私は地元の相談相手となり、親しく交流をさせて頂くことに。大変厳しい方でしたが、やがて彼女は深谷を訪れる度に私に声掛けて下さる仲になりました。
🔷多歌子様の𠮟責から始まったフレンチレストラン
1987年夏、多歌子様から「俳優の杉浦直樹さんが学園の池に錦鯉を寄付してくれました。その様子を見に毎夏来ます。ちょうど深谷駅に着くのがお昼頃。カレーが食べたいとのことですので、お宅のレストランで用意をして。」と声がかかりました。テレビドラマで拝見する俳優さんに緊張する中、帰り際に多歌子様から「貴女シッカリしなさい。あんなカレー、我が家の女中だって作れるわよ。」との言葉をもらい、ハッとしました。確かに、当時出していた料理は、「お客様に喜んでいただける」とマダムとして自信をもって提供できるものではなかったのです。さりとて納得行く料理人は簡単に見つからず、思い切って、自分でフライパンを振るう事にしました。
しかし、思いはあれど、所詮主婦の延長。1か月程続けると嫌になっていました。そんな時に16年位前に夫の経営する郊外レストランを辞めた人物がふらりと立ち寄りました。なんと彼はフランス料理人になっていて、群馬のホテルの料理長を退職したばかり。しかも、話を聞くと、彼がフランス料理人になったのは我が夫が向学の為に数名を銀座のマキシム・ド・パリに伴った結果だったというではありませんか。彼は世の中にこんな素晴らしい料理があるのかと感動し、退職して、フランス料理修行に進んだのでした。一周回って帰ってきた彼は、まさに渡りに船。私と同じ歳ということもわかり、すっかり意気投合。夫を説得して、フランス料理店を開くになりました。
続きは8月11日(金)に更新されます。
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